永遠回帰

テーマは主に社会、政治、哲学、霊性です。コメントは気軽にどうぞ。

カテゴリー別 記事一覧

 

 
◆教育
 
「教育のありかたについての諸々の考察」
 
http://yusakuphilo.hatenablog.com/entry/2017/03/08/114113 
 
 
◆霊性 
 
「霊性と文字」
 
http://yusakuphilo.hatenablog.com/entry/2017/03/10/004605 
 
「生と死の超越」
 
http://yusakuphilo.hatenablog.com/entry/2017/03/12/000625

 

「私のシュタイナー」

http://yusakuphilo.hatenablog.com/entry/2017/04/13/195345

 

 
◆こころ 
 
「歩み」
 
http://yusakuphilo.hatenablog.com/entry/2017/03/10/225139


◆社会 
 
「信念と創造についての考察」 
 
http://yusakuphilo.hatenablog.com/entry/2017/03/14/090718 

 

「開かれたもの」

http://yusakuphilo.hatenablog.com/entry/2017/04/13/200607

 

 

◆その他

 

「本の買い方について」

http://yusakuphilo.hatenablog.com/entry/2017/03/17/083218

 

開かれたもの

---開かれたもの---

 

 内面に深く沈潜することによって、生きる力を養い叡智を育む。彼はその時、どんなに外的に行動しているときよりも、世界に向かって開いている―――人を突き動かす源泉は、私の感覚ではやはり失意や悲しみになる。事実、多くの宗教的な指導者、社会運動家、アーティストがそうであった。簡単に言えば辛い経験をバネにしたり、あらゆる状況を反面教師にしていくということである。 
  
  だが、個的な痛みがエゴイスティックな感情を越えたものとして意味を持ち始めるのは、それに愛で普遍性を持たせることができたときだけである。例えば、こんな酷い目にあったから仕返しをしてやる、という思いではなく、こんな酷い目にあったから、そんなことが起きない世界にしようと願って行動する。 
  
 たまたま表現されたものが時代にフィットしていただけではなくて、エゴイスティックな感情でもそういう昇華の仕方を覚えた人は、その後もクオリティの高い作品を作り続けたり、社会や公共的な活動にも精を出していくことが多いように思う。もちろん、そういう人たちが出来なかったことや、やり残したことに目を向けなければいけない。

 

 

 

 

---物語と運動---

 

現代社会の基盤たる科学の体系や政治経済の機構は、過去の学者や様々な人々の思想に拠っている。「思想」は「物語」でもある。そして、「歴史」という物語に欠かせないのがまた「思想」である。誰かのビジョンや理想の寄せ集めで出来ている世界。

 

 国家、社会、自由、権利という近代的フィクション、民主主義、資本主義、フェミニズム環境保護といった、現代的な思想、運動、物語。新しい物語を懸命に紡ごうとする思想家やアーティストたち。政治家は役に立たない。システムは複雑になっていく。啓蒙などというのもそれこそ近代的ではあるが、ひとりひとりの精神の涵養を。

 

 

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---「伝わる文章」について考える---
  
 やたらと文学的であったり、情緒的であればいいのかといえば違う気がする。論理的に整理された文章は美しいが、それだけでも意味がない。
 
 「伝わる」とはどういうことか。なにか意図したものが完全に伝わるということはありえない。各々にとって、新しい発見や、良い直観を得られればそれでいい。
  
  
 書いた内容の事柄が、読んだ人の実存的な範疇に入ったら、それは「伝わった」と言えるだろうと思う。言葉の上でどこまで説明しているかとか、分かりやすいかどうかは本質的な問題ではない気がする。知識は、自分自身に結びついたときに自然と求めるようになる。 
  
  
  ところで、秩序や論理を重視するのは音楽の影響からだと思う。音楽と論理がどう結びつくのかと思う人もいるかもしれないが、音楽は論理的だ。論理を崩すことも含めて論理的だ。
  
 読んでいるとバッハの旋律がどこからか聞こえてくるような文章を、いつか書けるようになりたい。修行と模索は続く。

 

 

 

---「生きてる文章」について考える--- 

 

 よくリズミカルな文章とかいうけど、文章の場合、音楽と同じように、時間間隔的に均一に、自動的に目に入ってくるわけではない。文章には、読み手の能動的な思考や感覚の照応が求められる。 

 

 「生きてる文章」というのは、きっと、それを自然と読み手に行わせてしまうような文章だろう。音楽を聴くのと同じような感覚で読んでもらえる文章が書けたら理想だなと思う。そのために模索してみたい。まずは、音楽を演奏するのと同じような感覚で自分が文章を打てるようになることだろう。どこまでも内面的な作業。 

私のシュタイナー

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 一昨年の夏くらいに、はじめて「神秘学概論」を読んだとき、まったく意味が分からなかった。けど、色々と勉強を進めながらシュタイナーの言っていることの意味が分かりはじめたとき、これはなにか、とても大切なことを言っていると直感的に感じた。
 
 ...
シュタイナーを深く愛している高橋巌さんの翻訳の力もあるのだと思う。シュタイナーの本に専門的な用語は出てこないが(「自由の哲学」で哲学用語がいくらか出てくるが)細かいニュアンスまで拾って言葉を選んでいるのが分かる。
 
 
 
 シュタイナーの著作には、読んだら悩みが解決するとか、なにか自分を肯定してくれることが書いてあるとか、そんな要素は一切ない。むしろ厳密な思考の過程や、日々の修行を重視する。
 
霊的な世界と向き合うことの大切さを説いているが、それはあくまで科学的に物質世界と向き合うのと同じような真摯さであるべきだと主張する。霊的な世界は一歩間違えれば誤謬に陥るが、それは科学であっても同じことで、今の人間は科学の方を信奉してしまっている状態に過ぎない。
 
 

 正直に言うと、霊的合一なんてのは高度すぎてよほどの求道者でない限り、そこまで熱心に求めないのではないか。それに、後アトランティス期以前(今の人間が把握してる歴史以前)の宇宙観まで本気で知ろうとする人はもっと少ないと思う。それでも私は、そこまで知らなければ人間存在の本質を知りえないという意見に同感する。ただ、同じ山を違う場所から登っても同じ頂上にたどり着くように、方法は無数にあると思う。
 

霊的な世界に心を開いていく上で、基盤となるような考え方が必要だという意味ではシュタイナーの思想は有効だ。本を読んで自我が分裂したり、頭がおかしくなってしまうことはないと思うので、負荷やリスクも低い。人に対する価値判断を削ぎ落としていくことや、一つの形象に没頭することなど、多くは至って単純かつ日常的な生活の中で実践出来ることが多い。
 
 
 
 生きていく上で重要なことは、例えばこんな風に分けることができるかもしれない。物質世界といかに向き合うかというか。今自分が生きているこの時代や社会とどう向き合うか。私たちの魂や霊性というものとどう向き合えばいいのか。
 
これは、どれが大切でどれが大切でないという問題ではない。どれも大切だ。シュタイナーはその全てと向き合おうとした。シュタイナーの霊視のヴィジョンも面白いが、そういう彼の姿勢そのものにも心を打たれる。霊視の内容にしろ、活動の内容にしろ、何もかも完璧だったということはありえない。時代背景的にも、第一次世界大戦の勃発、学問や教育の危機などに対して、人間的な感情や怒りも強く覚えていたのではないかと私は思う。ユングも偉大だったし、学ぶことは多いけども、現代にその思想を活かそうと思うときに、見習う部分がシュタイナーのほうが多いと私は思ってる。
 
  
 
 シュタイナーの思想を現代社会に活かす上で、完全にそのままでは当てはまらない。社会有機体の考えは有効だが、もっと現代の状況や、日本人の特性に合わせた解説があってもいいかもしれない。 

あたかもシュタイナーをとても読み込んでいるような印象を与えてるかもしれないけど、全然そんなことはない(「ミュンヘンの小学校」でシュタイナー教育が広まるきっけを作った子安美知子さんですら、「全貌はまだまだ掴めない」と先日とある場で仰っていたのだから、たかだか二年近くでは序の口にも満たない)。
 
かなり幅広いことに関心を向けて読書(哲学、倫理、政治、社会問題、教育、アート等)をしているので、集中してシュタイナーだけに取り組むことはできていないが、そろそろ今まで読んだものを再読して考えを深めていきたい。 
 
 

 ちなみに、シュタイナー絡みの解説書では、フランシス・エドマンズの「考えることから生きることへ」、子安美知子の「モモを読む」、高橋巌さんの「シュタイナー哲学入門 もう一つの近代思想史」がお勧めです。
 
それから、コリン・ウィルソンの「ルドルフ・シュタイナー その人物とヴィジヨン」もいいかもしれない。読書が得意な人は、はじめから「神秘学概論」を読むことをお勧めです。

本の買い方について

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 本を買い込み勉強に集中するようになり、半年ほど経ちました。
 
効率をよく出費を安く抑える方法などを分かってきたのでシェアしたいと思います。
 
   
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 私は中古で買う場合、ブックオフオンラインでの購入と、東京・神保町の古書店を利用しています。
 
新品で買う場合は東京・丸の内の丸善を利用しています。
 
 
  
 

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 まずブックオフオンラインについてです。
 
オンラインですと、近くの店舗においていない本もたくさんあるので探している本は7割くらいの確率で在庫があります。
 
  
 
 

もう何度も利用しているので、値段の基準は大体わかってきました。
 
それなりに売れた本は数年立つと108円~298円などかなり安くなります。
 
逆にまったく売れない本や、Amazonのレビューの評価が低い本もかなり安くなります。
 
  

ですが、学術書や専門書などは古いものであっても極端には安くなりません。
 
私は幅広く色んな本を買いますが、哲学や物理、宗教や歴史などの大半は数百円引きくらいが多いです。
 
それでも新品で買うよりは合計金額で計算するとかなり安くなります。

 
 
Amazonの中古の値段と比べてみますと、両者の値段は大体同じであることが分かります。
 
場合によってはAmazonのほうが安い場合がありますが、私は一度に20冊以上注文することが多いのでブックオフオンラインの方が結果的に安く済みます。
 
(Amazonの中古ですと、注文するお店が違えば送料がそれぞれにかかってしまいますが、ブックオフオンラインなら1500円以上は無料配送です)
 
 
 
 
 
検索の仕方は、最初からほしい本が分かっている場合は書籍名を入れて調べます。
 
しかし、たとえば「イスラム教」に関する本が欲しい、「安倍政権」に関する本が欲しい、哲学者の「カント」についてわかりやすく解説してある本が欲しい、など書籍名が決まっていないけれど具体的に得たい知識や情報が分かっている場合は以下のようにして調べます。
 
 
 
まず、Amazonのページとブックオフオンラインのページを同時に開いておきます。
 
そしてそれぞれに得たい知識に関連したワード(たとえば「安倍政権」、「カント」など)を入力します。
 
表示されるブックオフオンラインの書籍名と値段、それからAmazonの評価や解説などを見比べて、自分の欲しい知識や情報と値段に納得したものをカートに入れていきます。
 
時間はかかりますが、アマゾンのページで見て気になった商品があれば、一つ一つブックオフオンラインで調べてもいいですね。

 


あまり悩み過ぎると、時間が延々にすぎていくので(笑)、パッと決断することも時間を浪費しないためには大切です。 
 

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 続いて東京・神保町の古書店街についてです。
  
大通りに沿って古本屋がずらーっと並んでいますが、どこの店舗でも店頭に100円や200円など安い本を並べています。


こちらは実際に本の内容も値段もすぐにパッと分かりますし、想定外に良い本も見つかることもあるので、良いメリットがあります。
  
お店によって扱っているジャンルの本も多少違ったりしますので、色々めぐってみると面白いです。
 
ただ、100円や200円などの安いコーナーで本を買いすぎると、帰りが重たくなるので注意です(笑)。 
 
 
 
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 オンラインや古書店でも置いていない本、もしくは新品でいいからすぐに欲しい本などは丸の内の丸善で買うことが多いです。
 
都内の大きな書店ですと、池袋のジュンク堂、新宿の紀伊国屋書店などがありますが、個人的な印象ですが丸善のほうが店員さんの対応が良い気がします。
  
とても大きな本屋で在庫も豊富なので、一度行ってみることをおすすめします。
 
 
 
 

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 このように、基本はブックオフオンラインや神保町古書店街、新品は丸善にて購入するという買い方をしています。
 
月に60冊以上は買いますが、いまのところ月に3,4万円ほどの出費です。
 
ちなみに「買うまでもないかな」という本や、出費を抑えたいときは図書館を利用します。
 
ですが、本に線を引いたり何度か読み返したりすることが多いのでなるべく購入します。
 
  
 

皆さんの利用しているお店や、出費を安く抑える方法などほかにもありましたらぜひ教えてください。
 
*画像はネットから拝借
(窓から滝のように流れる本。アリシマ・アーティマンという方の作品だそうです。)

 

信念と創造

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創造的な生き方っていうのは、
 
柔軟に立ち回りができて世界に順応できるということだと思う。
 
状況に抵抗してでも何か信念を押し通そうとするのも創造かもしれないけど、
 
個人的なパターンや外からの圧力で行動せずに、
 
必要だと思うことは受容し実践できる柔軟性とフットワークの軽さに現実を動かしていく力が宿る。
 
表面的に見えて何かを作ったり殖やすことより、
 
受け入れることや減らすことの方が本質的には重要かもしれない。
 
  

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「空腹を感じて何か食べたくなり、キッチンへと向かい、料理をして食事を頂く」過程と、
 
「夢や目標を設定し、諦めずに前に進み続け、叶える」過程は同じだ。
 
どちらもまず最初に生理的・感情的・本能的な欲から発する。
 
夢や目標も、それに対して情熱的な感情を抱くからこそ成し遂げようと思うのだ。
 

 
そして何かしら食べたい料理や気分を感じ、
 
イメージし、それに必要な材料を集めて調理する。
 
世の中を変える大きなビジョンも、
 
基本的に誰かが作ったイメージの寄せ集めで出てきたものだ。
 
作った食事を頂くときには、自分が最初に感じた欲求が、
 
自分の努力によって形になったそれを食べることで満たされ、
 
そして身体(社会)に作用を及ぼす。
 
もちろん、後者は他者が関わってくるので喩え以上のものではないけど、
 
お腹が減って料理をして食べることと、壮大な夢を叶えることが内的には同じ過程だと思うといい感じに力が抜けないだろうか。
 
 
  
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「信じる」という行為を広く捉えて、
 
何かを強く望むことや希望を持つこと、
 
更には計画を建てることまたは破棄すること、
 
科学的な営為まで含めて(最終的には「信じる」ものであるから)
 
「信仰」とするなら、それは人間社会を構築する根本的な原理の一つでもある。
 
「信念」とはまさに信じて念ずるのであって、
 
私たちはほぼ絶え間なくこの行為を行っている。
 
カルト的な団体が怖いのは、
 
非カルト的だと思っている全体社会の信念が崩れるからであって、
 
自分たちが「正常」だからではない。
 
社会の現実を変えようと思う時、人間社会における規準を信じるだけではなく、
 
そこまで見なければいけないと思う。
 
理性的である必要はあっても、単に理性的なだけでもダメなのだ。

 
 
***

生と死の超越

 私たちのほとんどは、なんとなく「自分は生きている」と感じ、そのように思っている。そしていつかは「自分は死ぬ」と、そう思っている。
 
 
 
「人間は死んだらどうなるのか」「死後の世界はあるのか」といったテーマへの応答は基本的には宗教が担い、最近になって量子力学的な解釈で説明をつけられるようになってきた、といったところだ。
 
 
けれども、普通、そもそもこのような問題や疑問を探求するにあたり大前提として誤謬が起きている。
 
それは「自分の(人間の)見ている世界、持っている概念や観念が正しい」という前提だ。
 
 
なぜなら、「死後の世界」といった時点で、多くの人が、どこか別の空間の中にそれが「あるのかないのか」という発想をしてしまい、さらにそこには生きているときの同じ感覚(時間や記憶)の延長線上にあるもののように、考えてしまっているからだ。
 
  

***

 
 
 例えば時間がない領域というのを想像してみよう、そしてそこに入ってみよう。
 
すると、そこには時間がないので「入った」という表現はおかしなことになる。
 
時間がないのだから、前後の経過などそこにはないからだ。
  

 
*** 

 
実のところ私たちは現象界と潜象界(この言葉を「生」と「死」、「この世」とあの世」に変えてみてもいい)が重なった世界に生きている。
  
 
時間と記憶、空間と認識、物質と精神などといったテーマは、生と死、輪廻や魂などといった不可視とされている事柄の実相へと繋がっていき、各々の分野や個人の意識において探求され続いていくだろう。
 
これではもちろん言葉が足りないのだが、いつか「生」と「死」という概念がなくなるか、またはその意味内容が大きく変わる日がいつかは来るものと私は思っている。
 
  

歩み

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 真摯な態度で人生を生きる人は、自分自身に対して冷静であり、自分の至らない部分にたいして自覚的である。
 
それを他人と比べて劣等感を抱くこともなく、ただ改善していくことに対して忠実的であるだけだ。
 
  
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 例え他者からどのような誉め言葉をかけられていても、至らない部分に自覚的であるが故に優越的になることもない。
 
そもそも優越的な感覚というのは、自身の心の傷の現れであることを彼は気づいている。
 
例え他者や状況を思い通りにしたいという欲求が出ても同様に、内のどこから出ているか気づいている。
 
 
*** 
 
 
 誠実な人は、自分の目や視野を曇らせてしまう要因に敏感である。
自身の価値判断や思い込みを通して他人の言葉や世界を見ていないかどうか、彼は常に気を配っている。
  
それはどこまでやったら終わりがくるというものではなく、生きている限り自身も世界も変わりゆくなかで常に続けていく修行だ。
 
 
***
  
 自分は善い人間だとか、世界に役に立っている人間だとか、そのように思えることよりも、人間の不完全さや自分の至らなさに気づけることの方が幸せである。
  
なぜなら、終わりがこない成長の中で、他者からどれだけ認められても、それでも残されている余地に気づいて真摯に努力し、変化し続けていくことの方が大変なのだから。