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永遠回帰

テーマは主に社会、政治、哲学、霊性です。コメントは気軽にどうぞ。

開かれたもの

---開かれたもの---

 

 内面に深く沈潜することによって、生きる力を養い叡智を育む。彼はその時、どんなに外的に行動しているときよりも、世界に向かって開いている―――人を突き動かす源泉は、私の感覚ではやはり失意や悲しみになる。事実、多くの宗教的な指導者、社会運動家、アーティストがそうであった。簡単に言えば辛い経験をバネにしたり、あらゆる状況を反面教師にしていくということである。 
  
  だが、個的な痛みがエゴイスティックな感情を越えたものとして意味を持ち始めるのは、それに愛で普遍性を持たせることができたときだけである。例えば、こんな酷い目にあったから仕返しをしてやる、という思いではなく、こんな酷い目にあったから、そんなことが起きない世界にしようと願って行動する。 
  
 たまたま表現されたものが時代にフィットしていただけではなくて、エゴイスティックな感情でもそういう昇華の仕方を覚えた人は、その後もクオリティの高い作品を作り続けたり、社会や公共的な活動にも精を出していくことが多いように思う。もちろん、そういう人たちが出来なかったことや、やり残したことに目を向けなければいけない。

 

 

 

 

---物語と運動---

 

現代社会の基盤たる科学の体系や政治経済の機構は、過去の学者や様々な人々の思想に拠っている。「思想」は「物語」でもある。そして、「歴史」という物語に欠かせないのがまた「思想」である。誰かのビジョンや理想の寄せ集めで出来ている世界。

 

 国家、社会、自由、権利という近代的フィクション、民主主義、資本主義、フェミニズム環境保護といった、現代的な思想、運動、物語。新しい物語を懸命に紡ごうとする思想家やアーティストたち。政治家は役に立たない。システムは複雑になっていく。啓蒙などというのもそれこそ近代的ではあるが、ひとりひとりの精神の涵養を。

 

 

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---「伝わる文章」について考える---
  
 やたらと文学的であったり、情緒的であればいいのかといえば違う気がする。論理的に整理された文章は美しいが、それだけでも意味がない。
 
 「伝わる」とはどういうことか。なにか意図したものが完全に伝わるということはありえない。各々にとって、新しい発見や、良い直観を得られればそれでいい。
  
  
 書いた内容の事柄が、読んだ人の実存的な範疇に入ったら、それは「伝わった」と言えるだろうと思う。言葉の上でどこまで説明しているかとか、分かりやすいかどうかは本質的な問題ではない気がする。知識は、自分自身に結びついたときに自然と求めるようになる。 
  
  
  ところで、秩序や論理を重視するのは音楽の影響からだと思う。音楽と論理がどう結びつくのかと思う人もいるかもしれないが、音楽は論理的だ。論理を崩すことも含めて論理的だ。
  
 読んでいるとバッハの旋律がどこからか聞こえてくるような文章を、いつか書けるようになりたい。修行と模索は続く。

 

 

 

---「生きてる文章」について考える--- 

 

 よくリズミカルな文章とかいうけど、文章の場合、音楽と同じように、時間間隔的に均一に、自動的に目に入ってくるわけではない。文章には、読み手の能動的な思考や感覚の照応が求められる。 

 

 「生きてる文章」というのは、きっと、それを自然と読み手に行わせてしまうような文章だろう。音楽を聴くのと同じような感覚で読んでもらえる文章が書けたら理想だなと思う。そのために模索してみたい。まずは、音楽を演奏するのと同じような感覚で自分が文章を打てるようになることだろう。どこまでも内面的な作業。