生と死の超越
私たちのほとんどは、なんとなく「自分は生きている」と感じ、そのように思っている。そしていつかは「自分は死ぬ」と、そう思っている。
「人間は死んだらどうなるのか」「死後の世界はあるのか」といったテーマへの応答は基本的には宗教が担い、最近になって量子力学的な解釈で説明をつけられるようになってきた、といったところだ。
けれども、普通、そもそもこのような問題や疑問を探求するにあたり大前提として誤謬が起きている。
それは「自分の(人間の)見ている世界、持っている概念や観念が正しい」という前提だ。
なぜなら、「死後の世界」といった時点で、多くの人が、どこか別の空間の中にそれが「あるのかないのか」という発想をしてしまい、さらにそこには生きているときの同じ感覚(時間や記憶)の延長線上にあるもののように、考えてしまっているからだ。
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例えば時間がない領域というのを想像してみよう、そしてそこに入ってみよう。
すると、そこには時間がないので「入った」という表現はおかしなことになる。
時間がないのだから、前後の経過などそこにはないからだ。
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実のところ私たちは現象界と潜象界(この言葉を「生」と「死」、「この世」とあの世」に変えてみてもいい)が重なった世界に生きている。
時間と記憶、空間と認識、物質と精神などといったテーマは、生と死、輪廻や魂などといった不可視とされている事柄の実相へと繋がっていき、各々の分野や個人の意識において探求され続いていくだろう。
これではもちろん言葉が足りないのだが、いつか「生」と「死」という概念がなくなるか、またはその意味内容が大きく変わる日がいつかは来るものと私は思っている。