永遠回帰

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霊性と文字

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 文字文化を持たない一部のアフリカの原住民は、実生活の中で過去や未来のことを考える必要性がほとんどないため「未来」という概念もないという。
 
古くは3000年前からある発作型の「てんかん」を持つ人は、発作を起こす寸前に、永遠の現在つまりある種の神秘的な体験をすることから、超越的な神のような存在に扱われ畏怖の対象だったという。...
  
 
そのてんかんの発症率は西洋に比べるとアフリカは著しく高いそうだ。他にも興奮状態・情緒不安なども同時に多く見られる。おそらく、シャーマニズム的な要素を生活のなかで持ち合わせていた古代のいたる地域も同様にそうだったろうと思われる。

 
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 あらゆる西洋的な文化の流入によって、過去-現在-未来の時間観念が必要性が彼らに生まれたことが分かる。
  
工業の始まりにより時間的に厳密な規則を守ることが要求されることによって、それまでは天体の動きやリズムだけで直感的に一日の流れを生きるだけでよかったのに、未来の計画や規則を考えなければ生活ができないようになったということである。


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 時代は遡り、古代オリエント多神教の信仰が盛んだったとき、楔形文字象形文字文字が発明されアルファベットが普及されて以来、おそらくそれまで聞こえていた「神の声が聞こえなくなった」と遺された資料から推測できる。
 
 
つまり、文字情報の発達により中東の文明地帯を中心に、それまで儀式や呪術を通して神と繋がっていたのが、その繋がりを失ってしまったのだ。そのことが旧約聖書やその他資料に残された嘆きから伺える。
 
 
ともすると、やはり文字が生まれたことによる言語能力や知性の発達が、科学技術や物質的な豊かさ、3次元的な空間認識と引き換えに人間の霊性を削ぎ落としてしまったのだろうか?
 
言語や知性は人間にとって悪いものなのだろうか?


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 「人類は進化するのではなくだんだん退化していく」と言った哲学者が古代ギリシャにいた。
 
確かに、人間にとって避けることのできない「生きる意味」や「死」についての問題や理解つまり宗教性が生活と直に密着していた古代の時期から、現代に至るまでそのような要素がどんどん希薄になっていることは自明のことだ。
 
それでも、キリスト教イスラム教は世界人口の大半を占めるし、人間の中に超越的な信仰や理解や体験を求める傾向がなくなった訳ではない。
哲学や物理学などの学問や科学技術にその欲動が向けられてきたと考えることもできる。

 
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 なにはともあれ、いまこの瞬間にも勢いよく物質的な技術は発展し続け、文字や言語を媒介とする情報化社会が加速し続けている。

インターネットを活用した有効なコミュニケーションツールやメディアが増え、それに伴い文字情報は私たちの生活の中に勢いよく流れこんでいる。
 

てんかんのような発作型の病気や分裂病などの症状は、神秘的な体験と同様の現象が起こることがあるという意味では霊性の顕現と表裏一体でもある。
 
ただ、現代社会の中で生きていく上で生きづらさを抱えるという意味では当然、そのような症状を発症しない方が過ごしやすいに決まっている。
 
 
 
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 つまりは、よく言われるように統合の時代なのだろう。
 
西洋がもたらした物質的な繁栄を既に私たちは生活に根付いたレベルで被っている訳で、それらを否定しても何も生産的な方向には進まない。
 
人類にとっての課題は、言語的な能力や知性をないものにして蓋をするのではなく、それらを霊性とどのように統合し、私たちの宗教性と繋ぎあわせ新しい文明を築いていけるのかというところだと思う。

教育のありかたについての諸々の考察

 

 

 文明を作り上げる基盤の一つとして「教育」のありかたはとても重要である。 
 
政治や経済、社会の制度、文化など多様な要因はあれど、「教育」におけるその体制や在り方は人格の根本を作り上げる要因という意味で、より一層重要な要素である。...
  
  
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 経済的に貧しい家庭環境で育ったり、学校で十分な教育を受けられる状況がなかったり、ハンディを背負ったとしても、懸命な教育者や人格者のもとに育てられれば、むしろ通常よりも豊かな人生を送った人の例はヘレン・ケラーをはじめたくさんある。
 

 

逆に言えば、経済的に満たされ、十分な設備や資料の下で育っても、周囲に尊敬できる大人がいなければ、人生に対する積極的な意欲や健全な精神が育まれるのは難しいと思われる。
 

 保護者であれ学校教師であれ、教育者による虐待や搾取を受けた子は生涯その記憶を背負って生きていくことになるし、独裁者による一方的な統制やナショナリティの押しつけのもとに育った人間が過剰なイデオロギーを帯びて、独裁者への支持と国家間の戦争にまで至ることにもなりかねないことは歴史が物語っている。
  
 
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 こどもというのは、大人が思っている以上に敏感であることを私たちはつねに心に持っている必要がある。
 
こどもの知性や思考が発達し、十分な言語能力が得られるまでの間は、理性的に何かを叩き込ませたり教え込ませることは避けなければいけないと思う。
 
算数の九九や文字の記憶などは小さなうちからでも問題はないにしても、思考や理性が発達するまえになんらかの価値観や信条を教え込むようなことはあってはならない。
 
その価値観や信条が大人になっておかしいと気づいたとしても、感情や感覚の深いレベルで浸透しているが故になかなか抜けきれないであろう。
  
 
(故に、日本語をある程度なじませる以前に、あまり幼すぎるうちから英語を教えるのもあまりよくない。いくらグローバル時代でも、まずは母国語や自国の文化について十分に触れてからというのが筋ではないだろうかと私は思う。)
   
 
 
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 むしろ、こどもにとって大切なのは、周囲にいきいきと社会生活を営んでいる大人がいることそれじたいである。
 
周囲の大人が感じることや、やっていることをみてこどもは模倣して自分の体内にそれを取り込んでいく。 
 
 
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 こども自身が感じることを素直に表現することが許され、それが学校や家庭という社会秩序の中で、より良いことに繋がるのであれば、みずからルールを変えていくことやその提案をしてもいいのだということをこどもにはわかってもらう必要がある。
 
家庭や学校、社会のルールに「適応」させるだけでなく、人や社会のためになるならじぶんの思うようにルールを変えてもいいと、その難しさも含めて、そういう自由さを環境のなかで用意してあげること。
  
(なんでもかんでもこどもの言うことを許容して甘やかせばいいというものでもない。それは無関心と同じである。 
 
だから大人は、こどもの成長過程について深く顧慮する必要があるし、自分自身がその子の人生に与える影響をつねに心に持っていることが望ましい。 
 
こどもの頃に言われたことや起きたことは、大人になってからのそれよりずっとあとまで感覚として残るものである。)
 
 

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